MM社史ダイジェスト最終
9/24

傾向が現れる可能性は高い。その学内試験問題を集め、傾向と対策などの分析も加える。それは、画期的な企画だった。1979年12月11日、岡庭は株式会社メディックメディアを設立した。『PINK本』『subnote』などの発行主体を明確にする必要があったからだ。資本金は1000万円。実家の援助も仰ぎ、自己資金で賄った。本社は、自由が丘の自宅マンションに置いた。間取りは2LDK。ここからメディックメディアの歴史が始まった。1974年に発足した全国医学生交流会は、その後年々拡大。86年には全国の国公私立医大・医学部80校の9割が集まるようになっていった。交流会は、参加校の増加に伴い、1979年からブロック制を導入。夏と国試直前の年2回、全国会を行った。国試に関する情報や医局研修に関する情報を持ち寄り、交流を深めるのが目的だ。それを受け、岡庭は『PINK本』を編集・発行した。1978年には2分冊、81年には3分冊にし、9月下旬、12月、翌年1月に発行した。「医師国試の出題委員が発表されるのは、8月10日前後。それを待ち、お盆から20日くらいにかけて全国会を開催した。最も暑い盛りだった」と岡庭は振り返る。岡庭の暑い夏も、ここから始まった。各大学担当者の連絡網の名簿ができ、医師国試の出題委員の学内試験問題や講義ノートを収集。集まった試験問題などを編集し、入力した。アルバイト学生を掻き集め、手分けして進めた。岡庭が日本大学大学院を修了したのは、1985年9月末。だが、岡庭がその後歩んだのは、医学研究の道でも、臨床医の道でもなかった。岡庭は医師から出版業の道へ、人生の舵を大きく切っていくことになる。サブノート保健医療論・公衆衛生学「僕は日大大学院で保健医療等を研究していたから、どんな問題が出題されるのか手に取るようにわかった。情報も入手しやすく、やっていたことが活かされた」医学生交流会で暑い夏が始まったすべては学生のために。医学生交流会から生まれた国試対策本の原点

元のページ  ../index.html#9

このブックを見る