1974年、東日本医科学生総合体育大会の評議委員を中心に、「全国医学生交流会」の結成が呼びかけられた。医師国家試験に向け、情報を交換するのがねらいだった。岡庭も昭和大学の委員となった。交流会は都内の大学から始まり、東日本に広がった。やがて、西日本の大学も巻き込み、全国区の連絡網が形成された。岡庭たちは閃いた。国家試験の出題委員が官報で発表されていたので、その委員の学内での試験問題や講義ノートを入手しよう。それで勉強すれば、効率のいい国試対策になる。まず参加校18校で「卒業試験問題集」を発行した。「だが、各大学からの寄せ集めだったので、体裁はバラバラ。統率する者もいなかった。本づくりに不慣れな学生が編集や校正に加わったため、誤字や間違いも少なくなかった」そこで、岡庭の出番となった。「ぼくは印刷技術にも精通していたので、卒業後も顧問のような立場でかかわることになった。もちろん、ボランティアだった」国試対策問題編集委員会を組織し、国試対策の問題集を編集した。『国試対策問題集』(PINK本)である。『PINK本』を創刊した翌年2月には、『subnote保健医療論・公衆衛生学』を発行した。保健医療論・公衆衛生学に関する各大学の国試対策講義用のプリントを原本に、過去の国試問題などを加え、編集したものだ。「もともとは自分用のノートだった。自分の大学の学生たちにみせると、いいまとめなのでぜひ欲しい、といわれた。最初はコピーだったが、本にしたら、他の大学の学生も欲しいといって、どんどん広まっていった」出題委員の学内試験問題が国家試験にそのまま出題されることはない。だが同じ人間が問題を作成する以上、国試対策問題集(PINK本)「激務の麻酔科医をやりながらの編集作業は大変だった。当直料と同じバイト代を出すから、と麻酔科の入局者に手伝ってもらい、どうにか発行に漕ぎ着けた」若き日の岡庭豊。医学生交流会では顧問のような立場で「PINK本」の編集を牽引した。自宅を本社に、出版社を立ち上げた1-10黎明期
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